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千葉家庭裁判所佐原支部 昭和48年(家)122号 審判

申立人 千葉県○○児童相談所長

事件本人 A 昭和○年○月○日生

他2名

親権者父 B

主文

申立人が事件本人A、C、Dを養護施設に入所させる措置をとることを承認する。

理由

(申立の趣旨)

主文と同旨の審判を求める。

(申立の実情)

事件本人らは、父Bにいじめられたことにより東京に行つた義母E(昭和○年○月○日生)のあとを追つて家出したところを、○○警察署からの通告により、昭和四八年三月一〇日から千葉県□□児童相談所に一時保護されているが、事件本人Aは以前にも家出したことがあり、父Bの養育態度にも好ましくない点が多くみられ、これ以上事件本人らを保護者に監護させることは著しく児童の福祉を害するものと考えられる。そのため児童福祉法二七条一項三号の養護施設への入所措置をとることが必要と認められるが、父Bは事件本人らを養護施設へ入所させることについて同意しない。そこで、同法二八条一項一号に基づいて本件申立をする。なお、事件本人らの母Fは事件本人らの施設入所を希望している。

(判断)

一件記録、家庭裁判所調査官Gの調査報告書、事件本人らの親権者父Bの審問の結果を総合すると次の事実を認めることができる。すなわち、B(昭和○年○月○日生)は昭和三一年三月大学を卒業し、千葉市のa生命千葉支社に勤めたが、まもなくF1(昭和○年○月○日君津市で出生し、昭和一二年一〇月二〇日養女となる)と知合い、佐原市bの生家に戻つて昭和三三年二月から同女と同棲し、昭和三四年一二月五日同女との婚姻届出をした、両名の間に昭和○年○月○日長男事件本人Aが、昭和○年○月○日長女事件本人Cが、昭和○年○月○日二女事件本人Dが生まれた。ところが、Fが昭和三九年一〇月家出したので、Bはまもなく事件本人らと共に香取郡c町の勤務先d産業株式会社の空家に転居し、その幼児らを男手ひとつで養育するようになつた。Bは事件本人らをc町のe小学校に入学させ、そのPTAの役員になつた。Bは事件本人らの将来を期待し、同人らに経済的不自由をかけないようにしたものの、日ごろ同人らを厳しく叱責し、殊にAには時折厳しい体罰を加えた。その動機については事件本人らに理解できる場合もあつたが、理解できない場合が多く、そのため同人らはBの言動に怯えるようになつた。Aは昭和四五年九月ころ家出し、東京都江戸川区の父方祖母の許に引取られて、同区のf小学校に転校した。CとDもそのころ同じように祖母の許に引取られてその小学校に転校した。Bは約一か月後に事件本人らを祖母の許から○○の自宅に引取つたが、Aには連日炊事などをさせ、同人だけは○○の小学校に転校させなかつた(g小学校に在籍させていた)。Bは昭和四六年四月二〇日から同年五月二二日までh病院に入院した(気管支喘息のため)。Aは同年四月一一日ころ館山市に住んでいたFを訪ねて遊んでいたが、同月三〇日ころd産業の代表取締役Hに連れられてFと共に○○に戻つた。Fは同年五月四日e小学校を訪問してAを六年に仮入学させる手続を措つたが、Aは一日しか登校せず、まもなく館山に戻つていたFの許へ行つたりした。千葉県□□児童相談所は同月一九日i保健所総務課の主任主事からAについて通告を受け、担当の児童福祉司がその事情を調査して同月二二日Aを緊急一時保護のうえ児童福祉法二七条一項三号の措置をとることが必要であると上申したが、そのまま放置され、何の措置もとられなかつた。Bはその入院中Fが折角○○に戻つたのに多額の金員を携帯してすぐ館山に帰つてしまつたのを立腹し、事件本人らにも「もうお母さんは絶対に家に入れない」と言明した。Bは退院祝の宴席で顔見知りになつた芸者E(昭和○年○月○日生、同女はIと婚姻して夫の氏を称していたが、昭和四七年一〇月一二日離婚し、復氏した)と情を深め、昭和四六年一〇月中旬同女を内縁の妻として迎入れ、事件本人らの母代りにもなつて貰つた。事件本人らは長い間母親の愛情に接していなかつたので、やさしい情を示したEによくなついた。そのためBも家庭で安らぎを取戻し、かん癪を起こさなくなつた。Bは昭和四七年一月E、事件本人らを連れてjグランドホテルに泊り、房総方面をドライブ旅行した。Aは同年四月k中学校に進学したが、同月一五日ころFから電話で呼ばれて木更津市の同女の許に行き、同年五月一四日ころ同女と共に○○に連戻された。Bはこの家出をひどく怒り、Aを厳しく折檻した。また、Bは同月一七日ころFと協議離婚することを決め、同女と共に離婚届出書に署名押印したうえ(なお、これは現在まで届出されていない)、同女に以後事件本人らに干渉しないよう要求した。その際FとEの間で口論となり、結局FがEに「子どもだけはよろしくお願いします」と言い、Eが「引受けました」ということになつた。Bは同年八月E、事件本人らを連れて伊東、大島、熱海などを一〇日間にわたつて旅行し、家族の融和を深めようとした。Eは同年○月○日女児を生んだ(この女児はあとでJと名付けられた)。また、Bは昭和四八年一月家族連れでいわき市のlセンターにドライブ旅行した。だが、Bは仕事などがうまく行かないと帰宅してEや事件本人らを相手にくどくどとその話をし、事件本人らがこれを理解してくれないと同人らにしばしば八つ当りした。また、Eはかなり前から睡眠薬を常用していた。Eが同年三月六日の夕方荷物をまとめて家出しようとした。Bはこれを見つけて引止め、同女を数回殴りつけるなどした。しかし、Eは翌七日Bの外出中Jを連れて家出し、東京都渋谷区〈以下省略〉K方(同人の妻LはEの姉)に身を寄せた。学校から帰つてこれを知つた事件本人らはEのあとを追つて家出し、K方に行つたが、K夫妻は翌八日朝自動車でCとDをBの許に送り届け、Aもその日のうちにBの許に帰つた。Bはその夜「父に恥をかかせた」と言つて事件本人らを見境なく折檻し、「お母さんを探して来い。お前らも出て行け」などとど鳴り散らした。事件本人らはこわくなつて隣りの珠算塾の空教室で夜を明かし、翌九日朝Bに見つけられて追いかけられたのを振切つて家出し、東京のK方に逃込んだ。K夫妻は手許に置くこともできず、再度の家出であつたので、△△警察署に事件本人らを連れて行き、その処遇を相談した。同署から○○警察署にその旨の連絡があり、○○署から○○児童相談所に通告がなされた。K夫妻はその夜事件本人らを自宅に泊め、翌一〇日同人らを千葉県□□児童相談所に引取つて貰い、同相談所長は○○児童相談所長の委託により同人らに一時保護を加えた。Bは同月一五日同相談所長に対し事件本人らを養護施設に入所させることを承諾し、その承諾書に署名押印したが、翌一六日電話で承諾を撤回すると通告した。Fは同月一七日同相談所長に対し事件本人らの施設入所を希望すると申出た。BはEの行方を探したが、K夫妻がその所在を隠し、同女をBに会わせないようにした。Aは中学一年で二四四日出席すべきところを六六日欠席し、病欠八日を除いて五八日を家庭不和による家出のため欠席した。事件本人らは同年五月七日一時保護の仮委託という形式で安房郡富浦町の県立養護施設m学園に入園したうえ、Aはo中学校二年に、Cはp小学校六年に、Dは同小学校五年にそれぞれ転校し、同学園に起居して通学しているが、いずれも学園や学校での適応が良好であり、一時保護を受けた当時の精神的動揺も治まつて明朗に暮している。Fは学園に時々事件本人らを訪ねたが同人らを自ら引取つて養育する意思をもたないし、同人らの信頼を失つているのでその能力もない。Bはうつ血性心不全、高血圧症性心疾患のため同年四月二八日h病院に入院して同年七月二三日退院し、その間学園を訪ねたり、学園に電話をしたりして事件本人らを手許に引取りたいと強く希望し、実力を行使してでも同人らを学園から連戻したいというのであるが、事件本人らはいずれもBのこれまでの言動などから同人に対して嫌悪の情を示し、同人の許に帰ることを強く拒んでいる。Bが事件本人らの引取を強く希望するのは、同人が○○の小、中学校のPTAの役員をしていたり、○○の会社の役員をしたりしているところから、もし施設入所と決まれば世間に顔向けができないという理由によるものと見受けられるのであつて、事件本人らに対する愛情に基づくものであるとは認め難い。Eはこれまで積極的にBの許に戻ろうとしたり、事件本人らの面倒をみたりしようとする態度を見せず、同年三月二六日上記の渋谷区qに転入届出をしたうえその所在をくらましていて、事件本人らの保護者となる見込はない。Bが先に事件本人らを手許に引取り、次にこれを口実としてEをも手許に引寄せたいというのであれば、それはあまりにも身勝手な考えである。事件本人らがBの許に引取られて平和な家庭生活を営むようになることは極めて望ましいことであるが、それには何よりもまずB自身が努力して事件本人らが喜んで飛込んで来れるような家庭環境を整えて置くことが先決である。

以上の事実によると事件本人らを保護者に監護させることは著しく事件本人らの福祉を害するといえるから、申立人が事件本人らを養護施設に入所させる措置をとることは相当であり、親権者父Bがこれに同意しないので、児童福祉法二八条一項一号によりその承認をするのが相当である。そこで、主文のとおり審判する。

(家事審判官 加藤一隆)

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